多様性という言葉の違和感の所感
私は仕事柄、人に対しては100%正と100%悪ではなく、中間で物事を捉えるように努めています。そんな考え方もあるよねって。人は生きていれば間違いはあるって。まずは前提のお話。
多様性。多様性の社会って言葉をよく聞くようになった。多様性について調べた言葉をシンプルにすると、みんなと違っても良いし、自分と違う人・価値観・考え方も認める。
テレビやネットの情報の一部を目にすると、寄ってたかってタコ殴りみたいなことも今の風潮ではあるような気がする。
人は正と悪だけの世界では、お互いに裁き合う。同じ日本人、同じ地球人なのにもかかわらず。相手は今間違いをしているかもしれないと捉えると、人は人のことを悪と裁くことは止めた方がよいと思う。
罪は裁かれる。人の間違いを正す為に反省の機会を与える為と思う。罪は裁かれるものだが、人は裁かれるものなのだろうか。
相手の間違いを認められるから、人は人間でいられると思う。相手は自分以外の人。人は人との繋がりで人間になれる。
多様性が様々な個性を認めるということであれば、今の時代の風潮に矛盾を感じる。
罪ならば裁かれて謝罪して償う、それだけの話。当事者と相手とのこと。罪でなくても相手は絶対に許せないという気持ちもあるのかもしれないから、当事者にはそれ相応の償いが必要になると思うが、逃げずに相手が許すまで償い続けること。それが当事者の責務と思う。同様に当事者が利害関係のある相手へ迷惑をかけたら謝罪して償うこと。
心理学では人間は感情的な動物と言われる。罪は罪、人は人。罪かどうかもはっきりしていない中、感情で人を社会問題として取り上げることに、違和感を感じた。
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