道助の自分セラピー

自分の心の取説。自分セラピーの発信。日本メンタルヘルス協会講座での学びと所感の記録。

無意識のその下

個を超えて繋がるのは、なにも人間ばかりでなく

 

 メンタルを受講し「集合無意識」という言葉をしりました。心理学者のフロイトの説ですが、普段している意識(顕在意識)、その下に意識していない無意識(潜在意識)とい物があるそうです。フロイトの弟子のユングが提唱した説では、その下に集合無意識というものがあり、集合無意識では自分以外の生命の集合無意識と繋がっている、という考え方で、近代ではトランスパーソナル心理学と言われています。予期もしない所でしばらく会ってなかった友人と再会したり、虫の知らせ、なんてことにも理由があるのではないか、という考え方の心理学です。

 

 今回、この心理学を知って思い出し、感じたことがあったので、綴り残したいと思いました。

 

 

 私が子供の頃、祖母が犬を飼ってました。その犬は飼い主家族の上下関係に敏感でした。犬目線で見ると、祖母は神、私の両親は先輩、私は下僕、といった並び順だったと思います。神に叱られて叩かれると、下僕に噛みついて憂さ晴らしする。今思うとジャイアンみたいな犬でした。

 

 後年、祖母も曾祖母の介護が終わり、気ままに遊びに出かける日々を過ごしてました。後から知ったのですが、当時は持病が悪化してたらしかったそうです。気づかれないようにしてたのかもしれませんが、したい事をして食べたい物を食べて、楽しそうにしてた印象でした。

 犬も時折庭の草を口にして吐くことはありましたが元気で、人間に例えるなら胃の調子が悪いので胃薬を飲んで吐いている、みたいな目で見ていたと思います。

 

 

  数か月が過ぎ、祖母は自宅で静かに終わりを遂げました。誰にも悟られないように。末期ガンだったことを知ったのは、旅立たれた後でした。犬は、寂しそうに見守ってました。

 

 

 その後すぐに、犬も全てをまっとうしたかのように、旅立って行きました。まるで、祖母に寄り添うように。私は犬語をわかるような特殊な能力はありません。ただ、祖母が亡くなるまで近くに居たい、そういう思いだったのかもしれません。ひょっとしたら、草を食べては吐いていた時も、生命力を振り絞っていたのかもしれません。今となっては分かりません。

 

 もし、犬と祖母の集合無意識が繋がっていたのだとしたら、「私が先に逝ったなら、寂しいと思うから、頑張りますワン」とか、「そんな無理しなくてよいよ、今までありがとう」とか。そんな会話が集合無意識であったではないか、そう思います。犬も最後の気持ちは「ご迷惑かけないよう、追いかけます」などと思っていたのではないか、今となって思います。

 

 

 シンクロニシティ、日本語では「共時性」という言葉に訳されます。小説より奇なり、そんな出来事は、美しくも涙もろく日常の中に埋もれているのではないでしょうか。

 

 どこかに埋もれている、皆様の共時性があれば、振り返ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 お読み頂き、ありがとうございます。